旅をしているときに、ふと、思ったことがあった。次郎の姿を見て、
何か大きな間違いをおかしているんじゃないか?
って。それは、風の強い日に来間島のビーチにいたときのこと。もうすぐ陽が沈む。大きな波がざっぱーん!とスゴイ迫力で押し寄せる。地元の人だったら、海に入らないだろう。でも、次郎はそれを見て大興奮。入るつもりのなかった海に飛び込んだ。大きな波が次郎の身体を押し倒す。わぁ〜!と喜びながらまた、立って、波を受ける。そのうち波にさらわれやしないかヒヤヒヤしながら、私は見ていた。
次郎は終始、笑顔で波と戯れていた。
その姿を見て思った。
私は何か大きな間違いをおかしているんじゃないか?
そのときは何となく感じたことだけど、今ならわかる。私は次郎を何かから守ろうとしていた。繊細な次郎が傷つかぬように自分が盾になろうとしていたんじゃないかって。それは母として誇り高き行動かもしれないが、最終的に子どもの成長を阻むだろう。波に何度も嬉しそうに倒される次郎を見て、自分の思い込みをはずさなくちゃって思ったんだ。
その気持ちは自分の奥底からやってくる。
“おもいこみ”
次郎の気質を『繊細で傷つきやすく自分のペースで生きたい子』と勝手に決めつけていたかも。それは間違いじゃないけど、正しいわけでもない。そういう子だから、私が守ってあげなくちゃ、って。思いたかったんだ。無意識に自分の存在意義を証明するために次郎を利用していた。ま、それも正しいか間違ってるかなんて、ないんだけど。心から次郎を信じてあげていたか、自信がない。
信じる?
そんなこと、言葉にして心得ることじゃない。きっと、それは自然に内側から湧き起こるものなんだろう。それをずっと私は勘違いしていたように思う。だれかを信じることが心からできていなかった。それは自分に対しての信頼がなかったから。頭では十分理解していた。自分を信じることが相手を信じることだ、と。実践もしてきた“つもり”だった。でも、なんだか満たされず攻撃性が出てくることを抑えられなかったのは、全然分かってなかったってこと。
自分がいま、空っぽになってみて攻撃性が削がれいく。それはずっと自分が望んでいたこと。そこに至るまで、何度も自分に絶望しなくちゃならなかった。自分の『正しさ』を手放さなくちゃならなかった。そうなってみて、ホント、どうエネルギーを出していいかわからなくなってる。ただ、簡単にだれかをジャッジすることは少なくなった。だって、何が良くて悪いか、もうわからないからね。
敵がいて、味方がいた方が楽だったな。でも、もうそこには戻れない。
さあ、どうやって生きようか?