この本を読んでから、自己受容について考えています。
で、自分の体験を踏まえて思うこと。
自己啓発本を読んでも、すごい人の話を聞きに行っても一時は自己評価が上がった気がするんだけど、結局はまた下がる。一度、外部委託して自己評価を上げるクセがついてしまうとジプシー化して「自分探しの旅」をし続ける。幸福な環境に自分をおけばおくほどキツくなって行く。
なぜ?私はこんなに恵まれているのに、なんで?
この寂しさはどこから来るの?
あの時、母の対応が悪かったから?
自分が誰かを責め続けているから?
我慢がたりない?
もっと自分に必要なものを身につけなくちゃ。
あの人みたいにできないから、残念な私。
比べちゃダメ。評価もダメ。ダメって思ったらダメ。
そもそも器が小さいから苦しいんだ。もっとデキる大人になりたい。
デキた大人はこんなことにつまずかない。
相手を変えずに自分を変えるんだ!
なんか、ずーっと分からなかった。いや、違う。わかったフリしかできなかった。
今、やっと思えるんだ。
わからないものは、わからないままにしておく
ってこと。いつも理由を求め、問いと答えを探していたよ。
そして、ふと湧いてきたことがある。
自己受容っていうのは、自己否定の“なれの果て”なんじゃないかってこと。自己肯定を繰り返しても自己評価を上げようとしても、自己受容にはつながらなかった。けど、自分の小ささ醜さに触れて自己否定を当たり前に受け取った瞬間にアキラメとともに自己受容も受け取れた気がしたんだ。
あなたは、どんなときも大丈夫。
あなたは、かけがいのない存在。
あなたは、いるだけで満たされている。
そんな言葉より
私は、宇宙の塵にすぎない。
私は、だれの役にも立たない。
私は、大した能力はない。
そこから始めてもいいのかなって思う。そんな自分で生きていく、その底辺の覚悟がもしかしたら自己受容なのかな、って。
ほら、アキラメたら、さ。もう自分勝手に生きるしかないじゃん。
だって、私がやることはどうせだれの役にも立たないし、どうせだれにも影響を与えないし、どうせ自分しか喜ばないんだから。
誰かに迷惑をかけるほどの影響力なんて、ないんだ。
「どうせ」の私は、案外、サイコーかも💕
だって私、自分はすごい!誰かを幸せにできる!まだまだ能力を発揮できていない!もっと成長できる!と思っていたときより、役立たずの今の自分がいいんだもん。
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