ここ3年間くらい、教育を語る場から距離を置いていた。ずっと、自分に潜り込みたくて、自分を探求していくことに時間を費やしていた。
結果、自分の好きなことや興味のあることを潰してみて、続くことや変化することや、すぐに飽きることなどが少しずつ、わかってきた。何より、自分はそれをほんとに欲しているか?の問いを持ち続けて、そのほとんどが『ウソ』だったんだと気づけたことは、とてもしんどくて大きなことだった。
でも、今、自分に向けてる厳しい(もしくは甘い)視点での物の考えを、見直したくて、ここへ出向いた。
#エデュシーク
結論として、行ってよかったし、緩やかだけど教育現場は変わっていくだろうとも思った。そして対等感のある人の話は、一方的でも決して相手の思考を妨げない、相手に対する最大の配慮をするんだなぁとLITALICOのアッキーの話を聴きながら感心してた。だし、オープンにしづらい話をカミングアウトできるような場になったことも、ステキだった。でも、私自身の抱えている問題の解決にはならなくて、ヤキモキしたのも正直なとこ。
ん?ワタシのカカエテルモンダイ?
あー、そー、そこね。私が問題を抱える自由がある。抱えない選択肢もある。あ、私、そんなに抱えてないや。不登校の子どもを育てるのも3回目に突入した。そろそろ“不登校の母”としてプロを名乗ってもいいんじゃないかと思うくらい、自分と対峙してきた。
それでも、毎日、吹っ切れているわけではなく…
その枠組みのない、縦横無尽な気持ちを説明しようとしても仕切れない。むしろ、言葉にすると間違っちゃうから、やめておく。
ただ一つ、思うことは、誰も悪くない。たぶん。誰かのせいにしたくなるし、犯人がいなけりゃ組織のせいにしたくなる。最終的には、『そういう時代』だからで、まとめるのは私の十八番だ。
誰も悪くない?
いや、ほんとは少しずつ、みんな悪いのかもしれない。そう思って、私は私のやりたいことに夢中になってみる。教育を語るより、誰かを批判するより、犯人を探すより、1番遠いところに、私の知りたいことがあるような気がしてならない。知りたいことが、なんなのかもわからないのだけど…
当面のワタシのホットワードは、
「やれそうなことを、やらない勇気」