昨日、実家の両親と話してから、大きな気づきがあったので、書き残す。
私は子どもに対して、【執着】があった。
『こんな子に育って欲しい』
と。なので、とことん執着してみた。長男なんかは、かなり私の望む教育の道を歩んでいる。次男はその理想をぶっ壊してくれたもんだから、かなり落ち込んだし、迷ったし、今でも何がいいのか、わからない。それでも、一緒に旅に出たり、とことん不登校を受けいれてみたり、模索は続く。おかげで、執着を少しづつ手離している。
この【執着】はどこから湧いてくるんだろう?
ってことが、両親と話していて、ふと理解した。
親への執着=子どもへの執着
ただシンプルに“愛の確認作業”なんだけど、10代で目立った反抗期(親に迷惑をかけること)がなかった私は30代から今まで反抗期が続いていたような気がする。それを抱えたまま子育てするもんだから、子どもに対しての欲求が抑えられない。自分はすごく寛容な母であるというアピールがひどい(笑)こうすれば、いい子育て、いい母、いい子なんだみたいな理想のおしつけ。
未熟な母でいいのに。
自分の母にも、理想をおしつけて“そんな子育てしたから、私の苦しみがなくならないんだ”という甘え・・・理不尽だ。で、やっと、そこから解放できた感覚。だいぶ、迷惑をかけてきたし、だいぶ、愛されて生きてきた。それを自覚する。
そして、こう思う。
親への執着=過去の執着
子どもへの執着=未来の執着
それが、すとんって理解できた。私はただ、“幸せ”になりたかった。“幸せ”が何かをわからずに、その“幸せ”に執着していた気がする。で、やっと執着することも気が済んで、手離すことになる。
一個ずつ、感謝しながら。
自分を守ってきた【執着】に、ありがとうって言いながら。
もう幸せであっても、そうでなくてもいい、って思う。《生きている》それだけで、よかったんだ。