「いまを生きる」勇気

三児の母。不登校児を連れて宮古島へ旅に出たり、大きなイベントを企画したり。その度に自分の弱さをみつける。そんな私の「成長しない」日々を綴る。

私とムスメと・・・

公園に行き、木々を眺める。

 

1週間前のグラデーションと、色の割合が変わっている。その一本の樹、それだけで心が動く。

 

どれだけ多くの芸術家が、その美しさに魅了されて絵を描いてきただろう。

どれだけ多くの音楽家が、その空気感を音にのせようとチャレンジしたのだろう。

どれだけ多くの教育者が、その神秘性を伝えたくて工夫してきたのだろう。

 

最近私は、4歳の娘の動き、歌声、表情の変化、全てに驚くほど惹かれる。

「かわいい」

たった一言で表現してしまえば、それまでだ。

 

女として生まれ、女として生きる。その歴史を私は彼女に託している。それはきっと、私より幸せになるなんてズルい!という、呪いの気持ちに正直になれたから。私の中に、彼女が私より幸せになることを拒否している可能性を、見つけたから。

 

だからこそ、愛おしい。

 

そうして、心から祈りのような願いが湧き起こる。女として生きることを大切にできなかった自分に懺悔するような気持ちで。

 

どうか、女であることを誇りに思って生きていけますように・・・

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私「ムスメちゃんの服、かわいいね💕」

娘「ママが小さくなったらあげるね💕」

 

 

いつだって、私は女として負けちゃうのだ。底なしの無邪気なかわいさに。

 

大人の遊び方〜泥だんご編〜

私は、大人になってから「光る泥だんご」作りにハマった。

 

流行ったのは、どうだろう?25年くらい前かな?学童保育の仕事をしている時に、保育園上がりの子どもたちから、教わった。最初はボッコボコのジャガイモみたいな泥だんごしかできなかったけど、何度も何度もやっていくうちに、ちゃんと、まあるくなるの。

 

もっと光らせたくて、流行らせた人の本まで買って。

https://www.amazon.co.jp/光れ-泥だんご-普通の土でのつくりかた-加用-文男/dp/4062110113

 

で、作って壊して、作ってあげて、を繰り返していくうちに、そこそこのモノができるようになった。でも、まだ、クレーターみたいなものができて、最高の「泥だんご」を作ったことがない。

 

正直、出来上がると、嬉しさよりも落胆が大きい。

『あー、また、ツルッとできなかった・・・もっと、キレイなものが作りたい!』

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泥と砂をひたすら、触り。それがなんとも心地よい。力を最小限にして、だんごの曲線をなでる。これは、ホントに職人の粋。いや、笑うけど、マジだから。単調な作業なのに、その積み重ねが結果を左右する。

 

ん!これ、子育てと一緒だな。

 

力を入れると壊れ、優しすぎるとカタチが整わず、途中で何度も投げ出したくなり、完成したその姿は理想形ではないものの愛さずにはいられない・・・。とか言ってみる。

 

手の感覚が全ての泥だんご。これ、作っている時に、“無の境地”になる。おもしろいことに、大人が真剣にやり始めると、周りの子どもに伝染して、あちこちで泥だんご作りが始まる。

 

やりなさい、やろうよ、やったらおもしろいよ。

 

そんな声かけよりも、ずっと、「大人の本気」は伝わるのだ。

そういうこと。泥だんご、恐るべし。

 

子どもを見て、『くだらない』と思うなら、あなたの人生がくだらない。

子どもを見て、『好きなことやってる』って思うなら、あなたの人生そのもの。

子どもを見て、『うらやましい』って思うなら、私、さっさとヤレ。

 

で、ゲームとyoutubeの動画見て楽しんでる息子を『くだらない』と私は思っているので、私もくだらない人生。泥だんご作ってるからね。くだらない、からダメでもないし。ダメ?いや、ダメでもいいしな。

 

お金を稼ぐ、真面目に働く、いいお母さんになる、身体にいいものを食べる・・・いろんな、「きちんと」が、自分から離れていく。そうすると、遊び方が、ふっと湧いてきて。

 

大人の遊び方!そう、私の身体を超えて遊び出す。泥だんごに夢中になっている気持ちと何にも変わらない。ただ、この球体がどこまでも「まる」でありますように、ただ一点を祈り続けるだけ。

 

アホっぽく、どこまでも、地球をなでるみたいに。

まあるくなりますように・・・

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 子育てカフェ、やります。一回きりか、続くのかはわかりません。

ランチ食べながら、そんな日常を語らいましょう。

日にち:11月21日(月)

時間:11:30-14:30

参加費:3000円(+各自飲食代)

場所:カフェミールバロック(長久手市)

https://tabelog.com/aichi/A2303/A230302/23049230/

5名まで。

メッセンジャーからお申込みください。

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今後、おハナシ(話す・離す・放す)会での講師、やります。一名ごとに参加費3000円お支払いください。あなたの街のお話し会にお招きください。5名以上集まれば、伺います。名古屋市内か長久手市内で。働いているお母さん。土日に企画してください。

「小学生の放課後」

「学校に行きたくないと言われたら、どうするか?」

「仕事、子育ての両立」

「自分の生き方」

「夫の育て方」

このあたりのテーマで、話して、離して、放してみませんか?いつものメンバー話してるといつものグチ、いつもの価値観、いつもの方向しか見えてこないものです。いつもと違う視点や、問いの中でおハナシしましょう。

facebookで繋がっている方は、メッセンジャーから。そのほかの方は、がんばって念を送ってください。うそ。ご縁があれば。

 

 

小学生のお母さんへ『子どもの困った!は財産になる』

小学生の子どもを持つ、全てのお母さんへ

 

私は20代から41歳まで、ずっと小学生を預かる“学童保育指導員”の仕事をしてきた。その間、結婚・(育休・出産・育休)×3回、職場復帰を3度経験した。大変だったか?と聞かれれば

「大変だった。」

と答えるし、楽しかった?と聞かれれば

「楽しかった。」

答えるだろう。結局、どっちもたくさん経験してきたからね。

 

普通のお母さんより、たくさんの子どもの成長をみてきた。小学生時代の6年間、その後も付き合いがある子は、それ以上。いろんな子どもがいて、それはそれは、人間の幅を広げさせてくれる良い経験となった。自分と向き合う機会をたくさんもらったおかげで、自分の子育てにも、余裕ができ・・・た、とは言い難いか。

 

ただ、いろんな子どものいろんな行動は、ホント、興味深くて。子どもをどうにかコントロールしようと思っていた若い頃は、全然うまく関われなかったけど、自分の身体に命が宿り、自然の流れで命が産まれてくる偉大なしくみを体感してから、“あー、身体はなんでも知ってる”という想いが溢れてきた。その体験のおかげで、あらゆる場面で子どもたちに委ねていくことができるようになった。

 

そこから、どこまでも自由な保育を目指して仕事をしてきた。いつもうまく行くわけではなくて、“自由がゆえの不自由さ”にもブツかって、迷走しながら指導員仲間や子どもとともに放課後を過ごしてきた。今だって、正解なんてわからない。

 

でも、たった1つ言えることは、

 

あのときの「え!ちょっと、それ困る〜!」といった経験が、全て財産になっているってこと。子どもの、じゃないよ。私の、財産に。

 

だから、いま、何かに困っているあなたがいるなら、大丈夫。そこ、そこがちょっとがんばりどきだけど、大切なものが埋まってる。もうちょっと掘り起こしてみよ!って伝えたい。大切なものがなんなのか、なんてわからない。今、必要なものではないかもしれない。でも、ちゃんとあるんだよ。そこに。

 

いま、わが家の長男(小6)は寮付きの自由な学校に通い、次男(小2)は不登校のまま家にいる。小学生にして2人とも、人生を選択している。もうね、子どもたちの将来がどうなるかなんて、わからない。だけど、困り事のたびに自分と向き合うしかなくて。そうして、自分の本音を探すんだ。不安や迷いを丸抱えで、それでも自分を信じる、という選択を私はする。

 

自信満々なんかじゃない。積極的な選択をしよう!と言いたいわけでもない。消極的な選択の中にも、一筋の光を見る、そんなささやかな信頼を寄せていく。

 

あなたの、『困り事』という名前の『財産』は何?

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子育てカフェ、始めます。

ランチ食べながら、そんな日常を語らいましょう。

日にち:11月21日(月)

時間:11:30-14:30

参加費:3000円(+各自飲食代)

場所:カフェミールバロック(長久手市)

https://tabelog.com/aichi/A2303/A230302/23049230/

5名まで。

 

今後、おハナシ(話す・離す・放す)会での講師、やります。一名ごとに参加費3000円お支払いください。あなたの街のお話し会にお招きください。5名以上集まれば、伺います。名古屋市内か長久手市内で。働いているお母さん。土日に企画してください。

「小学生の放課後」

「学校に行きたくないと言われたら、どうするか?」

「仕事、子育ての両立」

「自分の生き方」

「夫の育て方」

このあたりのテーマで、話して、離して、放してみませんか?いつものメンバー話してるといつものグチ、いつもの価値観、いつもの方向しか見えてこないものです。いつもと違う視点や、問いの中でおハナシしましょう。

facebookで繋がっている方は、メッセンジャーから。そのほかの方は、がんばって念を送ってください。うそ。ご縁があれば。

 

『あの時、伝えておけばよかった』と後悔しないように・・・なんて、できっこない!

40才を過ぎると、お付き合いの年齢層も変わり、ちょっと前までは“命の誕生”の報告が多かったのに、今は“命の最期”の報告が増えた。

 

『あの時、言っておけばよかった』と後悔しないように、日々、目の前の人に感謝して、「愛してる」って伝えましょう。

 

っていうの。以前は、めっちゃ、そう!と思ってた。特に東北大震災後。朝の「行ってらっしゃい!」が最期になるかも知れないんだ!と思って、いろいろ心がけた時もあった。子どもが小さかったこともあり、毎日のように「生まれてきてくれて、ありがとう。」って、言いながら眠りについた。

 

そして、最近、ふと思ったんだよねえ。どんだけ毎日、愛情を伝えても、どんだけ毎日、愛情を感じる日々を送っても、やっぱりさ。大切な人が亡くなったら、やっぱり、後悔するって。もっとこうしてあげれば、あのときあーしてれば、なんてきりがない。というか、そもそも、なんで後悔ってしちゃいけない・・・?私は、できればしたくない。いや、防ぎたい。後悔しない人生を送りたい。そう確かに思ってた。ん?自分の中から湧いてくる、もう1つの声。

 

後悔すれば、いいじゃん。

 

たくさんの後悔がきっと、生きる糧になるんだよ。そうじゃなかったら、こんなに罪悪感を抱えた人が多いはずないもん。あれ?後悔や罪悪感が人を生かすエネルギーになってる?

 

私は、そうだったな。

 

過去形、いや、今もか。そういう自分を一旦、知ることで、次に進める。後悔、罪悪感、しっかり感じよ、飽きるまで。まだ、ブレーキかけて、いい子ぶってるわぁ、自由ぶってるわぁ、悟りぶってるわぁ、私。

 

かっこいいこと、いいたいもん!

 

でも、大きくなろうとすれば、するほど、小さな自分に気づく。残念な自分に出会う。そうして、後悔する。で、ま、いっか。

 

後悔してもいい。罪悪感丸出しで生きる。

 

それでも私は、愛に包まれて生きている。

 

実感があってもなくても、そうなんだから仕方ない。

 

これからだって親しい人が亡くなれば、オロオロ泣いて、もっと〜してあげればよかったと後悔するのだ。しっかり、後悔してやる!ダサく、醜く、しつこく、ね。

 

そうして、大切な人を心に留めておきたいのかも知れないな…。

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【考察】どうして、キライになるのか?私の場合。

キライな人の話をした。

どうして、キライになるのか?考えた。

 

【私の場合】

もう、それは、ただ1つ。

相手と会っている時に、湧き起こってくる自分の感情を隠してしまったとき。一回のみならず、何回も重ねると会いたくなくなる。

 

先日、キライだと思っていた人に、自分の感じていることを言ったことで、その人に会いたくない、という感情がなくなった。本人はなんにも変わってないのにね。

 

自分の湧き起こってきた気持ちを、いつも正直に話さなくていい。けど、その気持ちを感じて受けとることはしていこう。

 

そんなことを感じた。

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キライな人をちゃんと、キライになること…自己否定をするってこと

昨日あげた記事が、過去最高のアクセスだった。

キライな人と話して、説教しちゃったけど…結局、自分に返ってくる件 - 「いまを生きる」勇気

私としてはちょっとした自己開示。でもやっぱ、カッコ悪い自分を見せるような気がして躊躇はあった。ところが、“わたし”は“あなた”で、“あなた”は“わたし”で、反応してくれた多くの人の中に、同じような経験・感情があることがわかった。

 

みなさん、いろんな反応をありがとう!

 

ずっと、いや今でもそうだけど、たびたび“こじらせる”のは得意で、どうしたって真っ直ぐに自分の感情を見られなかったときがある。

 

《何かを、誰かを批判していたいという気持ち》

 

今でもある。前に比べて、ぐっと減った自覚はあるけどね。前は、自覚もなしに自分の正当性ばかりを主張していた。今、考えると、それが何でだったか?わかる気がする。

 

そう、がんばっていたんだ。

自分を大切に扱えていなかったんだ。

自分のキライに気づかないフリをしていたんだ。

 

今はだいぶ、緩んできた。仕事をしているしていない、子どもがいるいない、結婚しているしていない、条件なんて関係なかった。

 

いま、自分が何を感じているか?

 

だけだった。そんなことは、心理学だろうとコミュニケーションスキルだろうとスピリチャル系だろうと、おんなじことを言ってるよ。使い古されたフレーズ過ぎて、イヤになる。わかっていたはずのことを、何でこじらせていたかっていうとね。

 

わかってしまった人の結果を、先に頭に入れてしまったから。

 

・ジャッジはしない

・許す

・感謝する

・ワクワクすることをやる

 

そこそこできていたし、困ってもいなかったハズなのに『何か違う』っていうことが拭いされなかった。そこで、子宮委員長はるちゃんの言葉との出会いで、『あ〜、そっか。』妙に納得して、行動を変えてみた。

 

・ジャッジしろよ

・自分を1番に大切にする

・気がすむまで身体を休ませる

・感情の揺れを楽しむ

 

いろんな思考を一旦、捨てた私は、随分ラクになった。キライな人を「合わない」「苦手」という言葉に逃げないで、ちゃんとキラウ。自分=相手なので、完全なる自己否定。自己否定は苦しいから、自己肯定しよう(相手を理解しよう)と思考が動くけど、そこを拒否して、ちゃんとキラってみる。そして、できれば相手に自分の価値観を押しつける。そこまで失敗しておけば、あとは自分の中に湧き起こってくる愛しさを待つのみ。と、今回の経験から思うのだ。

 

必死な自己肯定は、自己否定。だったら、しっかり先に自己否定したらいい。

 

これは、心理学系の本をたくさん読みすぎて、感情をコントロールできるまでになっていた、私の学び。

 

本を出すような、心の大きな人になりたかったな。

人前で話せるような、かっこいい人生をおくりたかったな。

他人に憧れるような、人格者になりたかったな。

 

って、表現できた瞬間、どうでもいいコトだと思えてきている自分に驚く。心の狭い、感情的で、自分ばっかりの私が、1番好き。

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キライな人と話して、説教しちゃったけど…結局、自分に返ってくる件

今日は、会いたくない人に会った。

私を好いてくれているのはわかるけど、私は好きじゃない。なんで、好きじゃないかって?

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なんとなく理屈っぽくて、自分の欲求不満を満たすために社会貢献をしようとしているから。正論を他人に押しつけ、自分の正しさを疑っていないから。

 

ね。イヤでしょ?絶対に関わりたくないでしょ?

 

いつもは時間のないフリで、テキトーに挨拶して過ごすんだけど、自分に不誠実な気がして、今日は「時間があるので、話しましょう。」とこちらから誘った。

 

一通り、お互いの近況報告して、そこから私の相手に対するダメ出しが始まった。「人と人のつながりは、つなげようとしたらできません。」「自分の欲求不満解消に、社会貢献は使わない方がいい。」

 

もうね、ほぼ説教。もう、嫌われていい!そんな感じで話していた。そしたら、なんか途中で、気が済んだのか、私の中から違う感情が湧いてきた。

 

「でもね。あなたが生きているその存在が社会貢献なんです。だから、がんばらなくても、責任を追わなくても、大丈夫です。こうして、生きているだけで、いいんです。」

 

って、言ってた。お互いジーンとした雰囲気になった。あ!そうだ!これを求めていたんだ。目の前の人を見て、思った。

 

だれが?

 

あの人が・・・いや、わたし?か。

 

 

その人と会いたくなかったのは、その人の中にある自分の“見栄”が刺激されるから。その人を通して自分の“かっこ悪さ”を感じてしまうから。だけど、気づいて欲しかったんだ。私の中の、寂しさを、私に。

 

私は自分に自信がなくて、だれかに頼りにしてもらいたくって、自分が生きている証が欲しくって、そういう自分に向き合えていなかった。いや、いっぱい向き合ってきたつもり、だった。そもそも、そんな自分でもいいって思っていたのに、まだダメ出ししている自分がいたことに驚く。相手に発した言葉は自分自身に向けて言ったこと。そうやって、何度も試される。私のキライな人が、私の大切な宝物を見せてくれる。

 

保育を仕事にしいる時には、さんざん『受け入れる』『受け止める』を胸に刻んで実行してきたハズだったのにね。全てゼロになって、もう一度やり直している感じ。

 

理屈っぽい、欲求不満を社会貢献で埋めようとする、正論を他人に押しつける。

 

これ、全部、わたし。

 

それでも、そんな自分を愛していく。そんなあの人を愛していく。

「ダッセー私でいい」

そう言ってくれるのは、夫でもなく子どもでもなく、親でもない。まずは、自分なんだ。いつだって、自分が自分を優しく包んでいく。