「いまを生きる」勇気

三児の母。不登校児を連れて宮古島へ旅に出たり、大きなイベントを企画したり。その度に自分の弱さをみつける。そんな私の「成長しない」日々を綴る。

とっくの昔に公教育に見切りをつけたお母さんが、泣いた話

高3の長男が公教育を離れたのは、今から8年前のこと。映画「夢みる小学校」で有名なきのくに学園へ転校した。子どもの姿を「ありのまま」受け止めてくれる教育に感動しっぱなしで、これが当たり前の、教育の場であってほしいと強く願った。

 

それから、自分の住んでいる地域の市長に、次男の通う校長に、直談判しに行ったり、周りの不登校の保護者とつながったり、次男・長女が学校を行かない選択をしたり、私の職場がフリースクールに変わったり…いろんなことがあった。

 

そのたび、私は“公教育を諦める”という選択をしてきたように思う。熱意を持って話しても、伝わらない変わらない、そんなことが続いたように思った。次男の引きこもり不登校を沢山の人が気にかけて見守り、時には手を貸してくれたことに感謝しかないが、学校教育自体が変化したと感じたことはなかった。

 

コロナ騒動をきっかけに、体感的にも実態としても、学校へ行かない選択をしている子どもたちは増えている。

 

“いつまで、見て見ぬふりをするんだろ?子どもを観る仕事の人たちが、それでいいと思ってるんだろうか?だとしたら、ほんと、日本おわってる”

 

など、いつでもどこででも悪態をつけるほど、不満は溜まっていた。にもかかわらず、怒り続けるエネルギーもなく、諦めるという消極的な方法で、私は折り合いをつけていた。

 

で、小学校1年生から6年生まで、ほとんど学校に行かなかった次男は、中学校へ行き、支援級から再スタートをはかった。担任の先生に恵まれてはいたものの、最初は週に1、2日休みつつ通い、徐々に休みは増えて、一年経ったころには、また引きこもり不登校へ戻っていた。まぁ、想定内ではあった。

 

今日、2年生になって、初めて中学校へ顔を出した。新しい支援級の先生と会い、また改めて今後の学校との関わりを決めたのち、なんと!

 

【校内フリースクール

 

の紹介へ移った。いや、知ってますよ!横浜の民間出身の校長先生が校内にフリースクールを作って、家具はみんなIKEAのもの、畑も耕して、そこに来た子も出席とする、そういった取り組みで不登校児ゼロを実現したって話。

 

すげ〜!と心から思ったけど、まぁ、そんなんは、すぐに広まるわけがない、だし、肝心なのは「ヒト」でしょ。例えすぐに、広まったとしても、誰かに命令されてきた人が、繊細な子どもの心に寄り添えるわけがない!と、思っていた。名古屋で始まるってことも聞いていたけど、公教育に期待しない私があまりにも染みついて、「へー」と冷ややかな反応しかできなかった。

 

でも、今日、その【校内フリースクール】を案内してもらって、その背景に想いを馳せながら、ほろほろ泣いてしまった。現場の先生が楽しそうに子どもとしている活動について、紹介してくださる。服装自由、登下校時間も自分次第、やりたいことは持ち込んでよし、誰にも会わずに入室できる工夫…などの環境で、好きに過ごしてよいとこと。

 

ここに至るまで、どれほどの人たちが想いや対話を重ねたのだろう?次男に関わってくれた教育関係者の方々は、決して何もしてなかったわけでは、なかったんだな。ちゃんと考えてくれてたんだ。

 

あー、長かったなぁ。

 

子どものために動いてくれる人がいた。そのことがわかって、ほんとに、嬉しかった。

 

その場所が、次男の居場所になるかは、まだわからない。でも、それでもいい。あなたのままでいいよ、というメッセージがある場所が、地域に、公教育の中にある、それだけで、私は満足なんだ。

 

今年度、スタートしたばかりで、周知ができていなくて、と先生。大丈夫、きっと生徒は増えるし、その子たちはどんどん成長するし、周りは影響されていくし、教育は変わっていくよ。そう思えた1日だった。

 

いつもいつも学校に行くのが面倒で、不登校であることを引け目に感じることは、正直ないのだけど、なぜか問題のないふつーのお母さんとして振る舞っていた私。

 

今日はほんと、感動して泣いてしまった。何を我慢してたんだろうね。

 

とにもかくにも、学校の新しい試みは始まったばかり。長久手市内でも、まだうちの校区にしかない。保護者として応援していきたい。